2015年12月28日月曜日

3.11震災を振り返る。前編。



2011年3月11日 大地震が日本を揺らした日。僕は台湾にいた。
「Japan, Japan, Japan!」
ゲストハウスでくつろいでいると、おじさんが階段を駆け上がってきて、ぼくに向かって、胸の前で両手を広げて激しく左右に振った。鬼気迫る表情からただ事ではないことはすぐにわかった。
「TV,TV!」
階下にあったテレビの前に連れてこられた。飛び込んでくる、津波が家を飲み込み田んぼを走る映像。台湾でも連日テレビや新聞の報道が続いた。



日本人とわかるとみんな心配してくれた。帰国までの5日間がとても長く感じた。帰国して携帯の電源を入れると「被災地に行きます。」「移住します。」「救援物資を集めています。」というメールが続々届いた。友人たちはすでに震災後のステップを踏み出していた。

「僕はどうしよう…」

そんな中、友人であった矢部寛明(ヒロ)さんから「東北に支援物資を届けてくるから寄付して欲しい」という趣旨の連絡が来た。いくらかお金を振り込んだが、現地は危険だという情報もあった。彼の身を案じる日々が続いた。

僕はといえば、中部電力に「浜岡原発を動かさないでくれ」と直談判をしたり、勉強会に参加したりしていたが、何をしても落ち着かない日々を過ごしていた。

被災地から帰ってきたヒロさんから「東北ボランティア報告会をする」と連絡をもらい、すぐに会場を手配した。その時に彼から「僕はもう一度東北に行く。」と言われ、僕も行くことにした。

震災後、僕は「原発や放射能からどう逃れようか。」そればかり考えていた、いつも自分のことばっかり。当時のブログより
日本は僕の国、僕の身体。東北は、僕の身体の一部。
傷ついている。泣いている。
とりあえず現状を把握したい。何が起こっているのか。何を求めているのか。
何もできないかもしれないけど。何かできるかもしれない。
怖かったけど、地に足のつかない生活は嫌だった。逃げていながら、ずっと気になっていた。どうしようもなかった。いてもたってもいられなかった。

知人の農家さんから軽トラックを借りて支援物資と生活用品一式を積んで、ヒロさんたちと石巻へ。


言葉も出ない惨状。どこから手をつけたらいいのか。とにかく指示されるがままに、どろかきをしたり、津波に浸かってしまって使えなくなった電化製品を運び出したり、水産業者から民家に流れ込んだイカを運び出したりした。






そして、忘れもしない4月11日夕方、震度6弱の余震。テントの中で、着替えているところだった。遠くから迫ってくる地鳴り。それととともに地面が突き上げてくる。激しい横揺れで立っていられない。四つん這いになって揺れが収まるのを待った。間もなくサイレンが鳴り響いた。僕らは高台に急いで避難をした。潮の匂いがする。津波がここまで来るかもしれない。

僕は恥ずかしい話、怖くて泣いた。正直泣いたということもよく覚えていない。ただ、周りのみんながそう言うからきっとそうだったんだろう。パニック状態だった。

津波警報は解除された。ボランティアセンターからは「とりあえず待機」という指示が出たが、僕らは女川原発がどうなるかが心配だった。今、いる場所から何キロも離れていない。福島の原発事故のようなことになってしまう可能性があった。

僕らは石巻を抜け出し、夜通し内陸へ停電で信号もついていない中、ひたすら車を走らせ、その日は原発から十分離れたところで車中泊した。


次の日、原発に異常がないことを確認して、石巻に戻ると「勝手な行動をするな。パニックになって、逃げたりする方が危ない。」とボランティアセンターの人に怒られた。でも自分たちの命を守ることができるのは自分たちだけだ。あの時の行動を僕は間違っていたとは思わない。

しかし、石巻で活動をするということは、ボランティアセンターの組織の一つとして行動しなければならないということだと知り、僕らは石巻で活動するのをやめることにした。

続く。
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いつかきちんと振り返りたいと思っていた「3.11」のこと。
日本にいるときは、追われるものが多すぎてできずにいたけれど、アイルランドに来て過去を振り返る余裕もできて、いい時間を過ごしています。仕事と、家はまだ見つからないけど笑