2016年8月1日月曜日

ロンドンからついに目的地のスコットランドへ

ヨーロッパは昼寝をするベンチを探すのに困らない。
日本みたいに仕切りつきのベンチは少ないし、
そもそも公園の数が圧倒的に多いから。

日本の場合は
昼寝する場所を探すのが大変
時々、滑り台に横になったりする
(子どもがいない時ね)


路面電車があると
つい写真を撮ってしまう


イギリスだって
日本と同じで
少し郊外に出れば気持ちいい
景色が広がってる











グラスゴーまで連れて行ってくれたカール
「1時間で用事済ませてくるからここで待ってて」
と言われて
待ってたんだけど
迎えに来てくれたのは
なんと5時間後の夜中の1時

到着したのは午前2時前で
とりあえず川沿いのベンチに横になって朝を待った


公園でさくらんぼを発見
貴重なビタミンC





屋根があるところ見つけられなかったから
朝露で全部 びしょ濡れ


夜が明けたばかりのグラスゴーを見下ろす

水たまりが好き


ロンドンからずっとヒッチハイクで乗り継ぎ、
ある時は泊めていただきながら、
目的地のスコットランドについた。



こうやって旅をしていると、施してもらうことが度々ある。ありがたいという感謝の気持ちと、すこし申し訳ない気持ちが生まれる。それだけのことをぼくはしているのだろうか。いや「何かをするから施される。」という発想が違うのか。もし友達が、いや友達じゃなくても、ぼくの地元の東松山に来てくれたら。名物のやきとりをご馳走するし、動物園や丸木美術館に連れて行く。それは喜びである。その人がどんなことをしてきて、どんなことをしようとしているのか関係ない。東松山にいい思い出を持って帰ってほしい。これも見返りか?


人に何かをしてあげたい。でも施されるのは申し訳ない。
何かをお願いされるのは嬉しいけど、何かをお願いするのは申し訳ない。

図々しいと思われたくないのか。嫌われたくないのか。
それはあるだろう。でもそれだけではない。

ぼくが人に「何か」したい、施したいと思うのは
その人が好きだから。東松山に来てくれたから。
好きになってほしいから。

その「何か」に目的がある、価値がある、理由がある。


施しと価値

「ぼくは施されるにふさわしいか」を考えている。
同時に「この人は施すにふさわしいか」を考えている。

ヨーロッパには路上に座って、
コーヒーカップを前に置き、
通行人の恵みを待つ人がたくさんいる

何かをすることなく、ただ座っている。

ぼくは「この人たちには施す価値がない」と思っている。



でも路上に座る人たちにお金を入れる人は
そこでおそらく価値を換算していない。
見返りはもちろん期待できない。

求めている人がいて、求められている人がいる。
与えられた人と与えた人。
そこで完結している。

施しと価値は関係がない。

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恩返しは求められているか。


何かを受け取る時には、なにか返ししたいと思う。
それが心理的に知らず知らずのうちに負担になってしまっていた。

「恩返しはしたければ、すればいい。」
この言葉だけを取り上げれば、ひどい話に聞こえるが
ここを出発点にしなくては。

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まとめ

今まで100%の感謝の気持ちで施しを受け取れていなかったのは、
「なぜ施して貰えるのか、
恩返しをどうしたらいいのかを考えていたから」

逆説的だが、
「100%の感謝の気持ちで施しを受け取るには
その場で100%感謝する」

今までどんなことしてきたから、
今、どのようなことをしているのか、
これからどんなことをしようとしているのか。
そういった自分の価値だとかそういったことは関係ない。
恩返しについて思い悩むこともない。

その場で気持ちよく受け取れなかったのは
ぼくがそこで自分の価値を計ったり、
恩返しがきちんとできるだろうかと、
不安に思ったりしていたからだ。



いろんな人に親切にしてもらい続けて、
最近、気づいたこと。